【どうする家康】戦国時代の噂・都市伝説を紹介【生存説】

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どうする家康

いよいよクライマックスが近づいてきた大河ドラマ『どうする家康』。

結末はわかっていてもどのような描かれ方をするのかとても楽しみです。

作中では個性豊かないろいろな武将が登場しました。

今回はそんな戦国武将にまつわる噂・都市伝説についてご紹介します。

「戦国時代やのに都市伝説って!」というツッコミはナシでお願いします(笑)。

信じるか信じないかはあなた次第ですが、どうぞお楽しみください。

 

①徳川家康 影武者説

まずはじめに『どうする家康』の主人公である徳川家康は志半ばで亡くなっていて、途中で影武者に入れ替わっていたという都市伝説です。

入れ替わった時期も諸説ありますが一番早いもので桶狭間の戦い後、独立してすぐと言われています。

独立後信長と戦うべく尾張に侵攻していた家康は、尾張守山にて暗殺されてしまいます。

家康の子である信康はまだ3歳、織田家と今川家どちらにつくかで今後の運命が決まってしまう重要な局面の中松平家当主に据えるには無謀すぎる年齢です。

混乱を恐れた松平家は世良田二郎三郎元信を影武者とし、信康が一人前になるまでこの事実を隠蔽しようとしました。

他にも家康死亡説は様々あります。

関ヶ原の戦いや大坂の陣で実は討ち死にしたとも言われています。

有名なのは大坂夏の陣での死亡説

真田信繁の本陣強襲により追い詰められた家康は自刃を考えながら逃走。

駕籠に担がれて逃走している途中に、家康の乗った駕籠が槍で突かれてしまいます。

家臣の奮闘で何とか堺まで逃げた家康でしたが、槍で突かれた傷が原因ですぐに死亡してしまいます。

大坂の陣の戦後処理で徳川家康の威光が必要な徳川家は影武者を用意し、少しだけ家康の死亡時期を誤魔化したのです。

この説が広まった背景には、堺の南宗寺にある徳川家康のお墓が関係しています。

事実であれば大坂の陣で豊臣方に勝ち目はなかったという事でしょう。

家康を討っても戦況は変わらなかったことになりますからね。

 

②明智光秀 生存説

次にご紹介するのは明智光秀は山崎の戦で討たれずに生き延びていたという説です。

戦国最大のミステリー本能寺の変には多くの説がありますが、そのなかで最も有名なお話です。

『どうする家康』では第29回で死亡したとされている明智光秀ですが、実は生き延びており後に南光坊天海と名を変え家康の江戸幕府設立を手助けしたと言われています。

この説が広まったのには以下のような理由が挙げられます。

・徳川家の乳母に明智家の重臣の子孫が選ばれている。

・徳川家康が祀られている日光東照宮には明智家の家紋である桔梗が多く使われており、近くに天海が名付けたとされる明智平という場所がある。

・天海の墓所がある場所は明智光秀の居城があった近江坂本。

・家康が展開と初めて会った時、初対面にもかかわらず親しそうであり人払いをして二人だけで話したと言われている。

・近畿各地に明智光秀がかくまわれた、山崎の戦以降に生きていたという伝承が残っている。

信憑性は高くないですが、この説が本当なら本能寺の変は明智光秀×徳川家康が共謀して織田信長を葬った事になります。

家康には信康事件など信長を恨む理由はあります。

『どうする家康』でも本能寺の変がおきなければ信長を討っていたような描かれ方でした。

 

③織田信長 生存説

続いても本能寺の変関連の都市伝説。

織田信長は本能寺の変後も生きていた説です。

本能寺の変で信長の首が見つからなかった事は、様々な憶測を呼ぶ原因となっています。

最大の疑問は本能寺からどうやって逃げてどこで何をしていたかです。

脱出した方法については、本能寺は織田軍の中継基地であったため地下に抜け穴が作られていたと言われています。

そして脱出した後は石川県で余生を過ごしたやら鹿児島県に流れ着いたという説があります

一番ぶっ飛んでる説は「明智光秀は信長に頼まれ本能寺の変を起こし、信長は死んだと見せかけヨーロッパに渡りローマを支配しようとした」というものです。

どの説も信憑性は低く、信長が生きていたらすぐに表舞台に戻ってきそうですよね。

他にも信長の首が見つからなかった理由は、信長に仕えていた黒人武士の弥助が信長の首を明智に渡さないため南蛮寺まで運んだという言い伝えもあります。

 

④服部半蔵 松尾芭蕉説

こちらは某人気都市伝説番組で オンエアされかなり有名になったお話です。

聞いたことある人も多いのではないでしょうか。

江戸時代に活躍した松尾芭蕉が実は服部半蔵であるという説です。

この都市伝説が広まった要因としては以下のようなことが挙げられます。

・松尾芭蕉は服部半蔵ゆかりの地伊賀の国出身

・江戸時代にただの俳句読みのおじさんが藩を越えて移動するのは難しい

・ただの俳句読みのおじさんが、日本中を徒歩で1日50km歩けるわけがない

というようなことから「松尾芭蕉は徳川にゆかりのある忍者ではないか?」と思われたわけです。

しかしこの説はかなり信ぴょう性が低く、ただの都市伝説であると言われています。

同一人物と言われている2代目服部半蔵正成(山田孝之)は松尾芭蕉が生まれるより早く亡くなっており、大河ドラマの中でも言っていた通り服部家は2代目以降忍者ではなく武士の家系です。

徳川に仕えた武士家系の当主が、武士の地位を捨てて俳句を詠みの旅をするのは謎すぎます。

ロマンはありますが残念ながら事実ではないでしょう。

 

⑤豊臣秀頼 生存説

家康最後の戦いにも都市伝説は存在します。

大阪夏の陣で大阪城と共に散った豊臣秀頼が実は生きていたという説です。

豊臣秀吉と淀君の息子である豊臣秀頼、史実では大阪城で自害したとされています。

しかし大坂夏の陣直後から「秀頼は真田信繫が連れ去って逃げた」という噂が広まります。

「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたよ加護島へ」

秀頼の首が見つからず真田信繫の首も本物かわからなかったと言われていることから、このようなわらべ歌が京ではうたわれました。

燃えてしまう前の大阪城には抜け穴がいくつもあり、真田信繁は抜け穴を利用して秀頼を大阪城から離れた場所まで連れ出しました。

その後海路で薩摩(鹿児島県)まで移動したと伝わっています。

現に鹿児島の谷山地区というところには豊臣秀頼の墓があります。

首の所在不明、真田の抜け穴、秀頼の墓、人気武将真田信繫といった理由からこの都市伝説は広まり有名になったのではないでしょうか。

そこから派生した都市伝説で天草四郎は豊臣秀頼の子孫であるというものもあります。

この都市伝説は【秀頼生存説+徳川家が全力で天草四郎の乱を鎮圧した】というところからきています。

 

⑥秀吉がいなければ日本は植民地化されていた説

『どうする家康』では天下統一を果たすも新たな戦を求め朝鮮に出兵し、日ノ本が混乱したままの状態でこの世を去った豊臣秀吉。

野心が強くはた迷惑な人物として描かれていましたが、実は豊臣秀吉が日本を救ったという説があります。

この説には秀吉が1587年に行った【バテレン追放令】、その後長崎で行った【キリスト教信者処刑】が大きく関係しています。

戦国時代外国から入ってきたものにキリスト教があります。

信長や秀吉も当初は自由貿易が盛んにので歓迎していました。

しかし問題が発生します。

キリスト教徒は神社・仏閣を認めずに弾圧、破壊するようになりました。

もともと八百万の神が根付いていた日本では、キリスト教のような唯一神の考え方は異端に感じられたのかもしれません。

さらにその頃ある報告が秀吉の耳に入ります。

それは宣教師による日本植民地計画

宣教師が日本人を奴隷として海外に送っていたという話は聞いたことがあるでしょう。

それに加えてキリシタン大名からイエズス会に領土が寄進されたり、宣教師が武装強化していたりときな臭い噂が立ちます。

これに激怒した秀吉はバテレンを追放し、当時キリスト教徒が多かった長崎で処刑を敢行します。

この流れで家康の時代に変わってもキリスト教徒は迫害され続けるのです。

学校で「江戸時代に行われていた踏絵は非人道的だ!」と習いましたが、この話が事実ならキリスト教徒が弾圧されても仕方ないのかなと思います。

まぁ戦国時代の日本はそこら中に武士という命を懸けて領地を守る職業軍人がいる+島国で攻めにくいという点を考えれば、簡単に侵略はされなかったでしょう。

そしてこのお話は都市伝説として紹介しましたが、事実の可能性が高いお話です。

日本人が奴隷として海外に売られていたのは事実ですし、スペインとポルトガルが日本を植民地化しようとしていたことも否定できません。

当時の欧州では【宣教師を送る→商人を送る→軍人を送って占領】という戦略が当たり前でした。

秀吉と家康のおかげで今の日本があるといっても過言ではありません。

 

⑦上杉謙信 女性説

『どうする家康』では出番はなかったですが、戦国時代の人気武将では頻繁に名前の挙がる上杉謙信。

家康を窮地に追い込んだ武田信玄と幾度となく死闘を繰り広げ軍神とまで言われた上杉謙信ですが、実は女性だったとい説があります。

この説が広まった要因として、上杉謙信は生涯結婚をせず実子を持たなかったという事が挙げられます。

この時代大名が実子を持たない事は、お家の存続にかかわるのでありえない事なんです。

ましてや上杉謙信のような有力大名。

同性愛者やEDだったという説もありますが、個人の問題で正室すら持たないというのは疑問が残ります。

実際謙信亡き後お家騒動が起こってしまい、上杉家は大事な時期に弱体化してしまいました。

他にも謙信は月に一回腹部の不調を訴え、戦のさなかであっても自室にこもったと言われています。

死因も女性関連の疾患という説もあります。

上杉謙信女性説は2次創作でもたびたび取り上げられる説ですが、否定的な説も多く信憑性は低いと考えられています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は趣向を変えて史実ではなく都市伝説を紹介しました。

軽くご紹介しただけですので、気になるお話があれば調べてみて下さい。

戦国時代の都市伝説はロマンがありますよね。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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