【どうする家康】真・三方ヶ原の戦い 起こった理由は?【諸説あり】

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第17回、第18回と2話にわたって放送される三方ヶ原の戦い。

家康の馬印が倒されるくらい徳川方惨敗となった戦いで、中盤までで一番のヤマ場です。

第17回は家康の鎧を着た遺体が信玄のもとに運ばれる衝撃のラストでした。

『どうする家康』では岡崎城が落とされることを恐れ地の利があるので勝てるかもしれないと判断したことが三方ヶ原の戦いが起こった要因として描かれていました。

しかし史実では三方ヶ原が起こった要因としていろんな説があります。

そこで『どうする家康』では描かれていない三方ヶ原の戦いについての「諸説あり」をご紹介します。

 

①馬鹿にされて腹を立てた説

古くから通説となっているのが【信玄に無視されたことに腹を立てて背後を突こうとした説】です。

このころ家康は遠江を領地にしていましたが、まだ遠江の国衆をまとめきれていませんでした。

そんな状況で信玄にバカにされたとなると、ますます遠江の国衆は離れてしまいます。

感情的になったというよりは、バカにされたままだと今後の領内統治に影響が出るからうって出るしかなかったという状況です。

メンツを守れなければ離反や裏切りが相次ぐ時代。

勝てない相手であっても戦うしかなかったのです。

 

②岡崎城を守るため説

『どうする家康』ではこれも理由の一つとして描かれました。

岡崎城には瀬名・信康など家康や家臣団の家族がいます

浜松をスルーした無傷の武田軍が岡崎城を攻めた場合、岡崎城はひとたまりもありません。

岡崎城は浜松に援軍を出していたので、3000人程度の兵力しかありませんでした。

一方の武田軍は2万人以上

通常籠城している相手を攻略するには、3倍の兵力が必要と言われています。

この時の兵力差は6倍以上、さらには城主は戦馴れしていない信康。

攻められたらすぐに落城するでしょう。

『どうする家康』で家康は家族思いな人物として描かれているので、この状況で見捨てることはでききません。

そして徳川家のお膝下である岡崎を武田に取られて、信長と分断されては徳川家滅亡は免れません。

家康はなんとしても岡崎を守る必要がありました。

 

③信長を守るため説

『どうする家康』で援軍に来た信長家臣団が家康と共に動いた理由でした。

この時信長は浅井・朝倉と戦の最中です。

家康の役割は信長が浅井・朝倉との戦を終わらせるまで、武田を足止めして時間を稼ぐこと

そして戦を終わらせ援軍に来た信長と協力して武田軍を返り討ちにすることでした。

そんな状況で武田軍は家康を無視して進軍します。

このまま武田軍が無傷で進軍すると信長を背後から攻撃することができ、信長は挟撃されてしまいます。

ここで織田家が落ちると徳川が孤立し、打つ手がなくなります。

そのため武田を足止めするために、家康は浜松城からうって出るしかありませんでした。

 

④浜松城孤立説

武田をこのまま進軍させると浜松城が孤立してしまうので、どのみちやられるという説です。

この説が近年一番有力ではないかとされています。

武田軍は徳川の城をどんどん落として、天竜川を越えて浜松城のすぐ近くまで進んでいます。

この時東側の城は武田にすべて取られてしまっています

そして武田軍が浜松をスルーして西側に進軍するとどうなるでしょうか?

この黒い〇の部分がまず取られてしまいます。

これを家康は恐れました。

この浜名湖に出っ張った部分にある城(堀江城)を武田に取られてしまうと、浜松城への物流が機能しなくなります。

浜松城への物流は浜名湖の水運でまかなっていました。

浜名湖を抑えられると浜松城は兵糧攻めの状態になります。

武田と戦うために浜松城には岡崎城からの援軍や信長から援軍が来ており、1万人以上の兵がいました。

兵糧攻めにあえばひとたまりもありません。

さらに浅井・朝倉と戦を終えた信長が援軍を出そうにも、浜松城への移動ルートがなくなります

信長の援軍が間に合ったとしても、連携できず武田とぶつかる羽目になってしまうのです。

なので堀江城を落とされる前に家康は三方ヶ原で信玄を足止めするしかありませんでした。

信玄ははじめから堀江城を狙っており、家康がそれを見越して浜松城から出てくることも計画通りであったとされています。

この説が戦略的に一番理にかなっていますね。

実際に武田軍は三方ヶ原の戦い後、堀江城にむけて進軍しています。

 

⑤そもそもがっつり戦うつもりはなかった説

前述したいくつかの説であった通り、家康は時間稼ぎをしないといけませんでした。

なので三方ヶ原で家康は武田軍に後ろからちょっかいをかける程度に戦うつもりだったという説があります。

『どうする家康』で描かれていたようにもともと勝てるとは思っておらず、チクチク攻撃して時間を稼いで武田の進軍を送らせたかったのです。

この説の根拠とし、三方ヶ原の戦いが始まったのは夕方です。

冬で日が落ちる時間が早い事も考えれば、本格的に戦を始める時間ではありませんでした。

しかし家康の思惑とは異なり、戦いは本格的に始まってしまったのです。

武田の策かたまたま上手くいっただけかはわかりませんが、徳川軍の一部部隊が武田軍を撃破し押し込みます。

そこでイケイケになってしまった一部の徳川軍は、家康の命令に反して武田陣地深くまで進軍してしまったのです。

しかし数でも強さでも勝る武田軍が一気に押し返すと、徳川軍はすぐに壊滅。

武田陣地深くまで進軍してしまっていた徳川の部隊は、想像以上の被害を出して敗走する事になってしまったのです。

そのため家康が逃げるのも遅れてしまい、危うく討ち取られてしまうところでした。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

世間では『どうする家康』はフィクション要素が多いという意見もあります。

しかし以前に書いた瀬名・信康の事件や三方ヶ原の戦いのように、真実がわからないイベントもたくさんあります。

ドラマなのでフィクションが多めになっても、物語にハマるよう演出していけばいいのではないでしょうか。

三方ヶ原の戦いは徳川家の重臣が何名かが討たれてしまい、悲しい回になってしまうでしょう。

家康がこれをどのように乗り越えて成長するかが楽しみですね。

 



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