今回は近々訪れるであろう瀬名の最期について記事にしました。
史実を元にしたネタバレ記事になるので、ネタバレNGで大河ドラマのストーリーを楽しみたい方は戻るボタンを押してください。
『どうする家康』では仲睦まじい様子の家康と瀬名ですが、この後二人の関係に衝撃の結末が待っています。
瀬名の最期は『どうする家康』でどのように描かれるのでしょうか?
また瀬名の最期については諸説あるので、だれが黒幕か?についていくつかご紹介いたします。
ドラマのストーリーだけでなく、いろいろな説について知りたい方は是非最後まで読んでください。
1.瀬名姫(築山殿)とは
瀬名姫(築山殿)は徳川家康の1人目の正室です。
『どうする家康』では有村架純さんが演じており、かわいさの中に力強さを感じる女性です。
今川義元の姪として生まれた瀬名は、駿府で超お嬢様として育てられました。
そこで当時人質として今川家にいた家康と結婚します。
『どうする家康』では幼少期から仲の良い様子が描かれていましたね。
家康の正室でとても仲のいい様子が描かれていますが、1579年家康の命令で殺されてしまいました。
史実を知らない大河ドラマファンからすると衝撃の展開です。
なぜ家康は瀬名を殺すよう家臣に命じたのでしょうか。
まずは『どうする家康』で描かれるであろう説をご紹介します。
2.『どうする家康』で描かれる瀬名の最期
①嫁姑問題
第16話で家康は岡崎城を長男信康に任せて、自信は浜松城に移ります。
この時瀬名は岡崎に残りました。
第15話で瀬名と別れるにあたって名残惜しそうな家康の姿が描かれていましたよね。
家康が去った後の岡崎城では信康の妻徳姫と瀬名の嫁姑問題が勃発します。
瀬名からすると叔父である今川義元を殺した信長の娘です。
間接的とはいえ信長のせいで両親を失った瀬名は徳姫を恨む感情があったのかもしれません。
一方徳姫のも織田信長の娘という事で、嫁入り先の岡崎でも自由に振舞っている描写がありました。
信長の娘という事で家康を見下しているのかもしれません。
岡崎から家康がいなくなり両者の衝突が激しくなります。
徳姫が生んだ1人目、2人目の子どもはともに女の子でした。
瀬名は跡継ぎである男子を産めなかった徳姫にきつく当たります。
そして信康に側室をあてがい、側室との間に跡継ぎを生ませようとしました。
このころから信康と徳姫の関係も悪化してしまいます。
②武田家と内通する瀬名
家康が岡崎を去った後、瀬名は信康のことを第一に考える行動をとります。
その一つとして織田・徳川連合が武田家に敗北した時のことを考え、瀬名は武田家とつながりを持ちます。
一説では武田につくことで家康が討たれたとしても、信康を武田家の武将として生き残らせることを画策していたともあります。
実際信康の家臣が武田勝頼の三河侵攻を助けようとした事件(大賀弥四郎事件)もあり、徳川家内部には武田に通じようとするものがいたことは事実です。
しかし瀬名の企みを密告する人間が岡崎城にいました。
瀬名・信康と関係が悪化した徳姫です。
徳姫は父である織田信長に12カ条の書状を出します。
③瀬名の最期
徳姫が織田信長に出した書状は12か条からなる書状で、信康や瀬名からひどい扱いを受けているという内容でした。
書状には瀬名からうけた嫌がらせや信康の残虐性について書かれていました。
その中には瀬名が密かに武田家と内通しており、信康共々武田家につく可能性があるという訴えがありました。
ただの嫁姑問題であれば信長も苦言を呈する程度だったかもしれませんが、今まさに戦をしている武田家に徳川の嫡男が寝返るという内容は許されるものではありませんでした。
すぐに信長は家康に対して事情を説明するように命じます。
家康は弁明するために、酒井忠次を使者として信長のもとに送りました。
しかし酒井忠次は徳姫の書状の内容を否定できずに、信康・瀬名をかばいきれませんでした。
これに激怒した信長は瀬名・信康を殺すよう家康に迫ります。
瀬名・信康を助けたい家康でしたが、今信長を敵に回しては徳川家が滅びてしまうと考えます。
そして泣く泣く2人を処分する事を決めました。
瀬名は岡崎から浜松へ移動している最中、家康家臣によって斬殺されます。
その後信康は自刃するよう家康から命令され、二俣城で切腹しました。
命を懸けて今川家から救い出した妻と子供を、自分の命令で殺さなければならなかった家康。
ここまでの『どうする家康』を見る限り、信長の命令で仕方なく…という描かれ方をするでしょう。
中盤の大きな山場で一番泣けるシーンになることは間違いないでしょう。
3.諸説ある瀬名殺害の経緯
上記で説明した流れが史実でも主流ですが、他にも信康・瀬名殺害についてはいろんな説があります。
『どうする家康』ではおそらく描かれないであろういくつかの説を紹介します。
①家康黒幕説
信長に言われて仕方なく…ではなく、家康自らの意志で二人を殺害したという説もあります。
そもそも史実ではドラマほど瀬名と家康は仲良くなかったとされています。
家康が今川家を裏切ったことで両親が死んでしまったのですから、瀬名としても家康に対して恨みがないわけではありませんよね。
そして家康は有能な嫡男の信康を警戒していたという話もあります。
決して戦上手とは言えない家康と違い、信康は長篠の戦で武功をあげています。
若くして武勇に優れて、配下の信頼も厚い信康に対して家康は危機感を抱いていました。
また家康が浜松に移ってからは、岡崎に残った家臣と浜松の家臣で派閥争いがあったと言われています。
岡崎の家臣の中には武田に内通した者もいたそうです。
家康は岡崎の家臣と信康が謀反を起こし、武田と組んで浜松を攻め徳川家当主が奪われることを恐れていたのです。
そこで家康は徳姫の訴えを利用し、瀬名と信康をまとめて始末しました。
信長は徳姫の訴えに対して瀬名・信康の処分するよう要求したのではなく、家康にもめ事を解決するよう指示を出しただけとも言われています。
家康は体裁を保つため、信長に指示されたという事にして脅威となりうる信康と共に邪魔な瀬名を始末したのです。
『どうする家康』で描かれている家康はとても家族思いなので、このストーリーはありえないでしょう。
②家臣団の争い説
2つ目にご紹介する説は家臣団の争いで瀬名と信康が犠牲になったというものです。
①でも述べたように、岡崎に残った家臣(岡崎衆)と浜松の家臣(浜松衆)で派閥争いがありました。
派閥の争いは徳川家当主の座にまで踏み込もうとしており、岡崎衆は岡崎城主で嫡男の信康を徳川家当主にしようと目論んでいました。
この時岡崎衆をまとめ上げていたのが石川数正(松重豊)、浜松衆をまとめていたのが酒井忠次(大森南朋)とされています。
優秀な嫡男である信康を担ぎ上げた岡崎衆が謀反を起こすことを心配した浜松衆は、信康・瀬名に不満を持つ徳姫に書状を書かせて織田信長に届けたのです。
そして信長に弁明するための使者として送られたのが酒井忠次。
酒井忠次は浜松衆ですので信康が不利になるよう弁明をしませんでした。
そのため信長の怒りを買い、信康・瀬名はこの世を去ることになったとされています。
すべては家臣団の浜松衆が企てた陰謀というのがこの説です。
『どうする家康』では家臣団の中の良さも描かれているので、このストーリーも採用されないでしょう。
③信長のテスト説
最期に紹介するのは信長が家康を試したとされる説です。
長篠の戦い終了時点で織田信長はかなり天下統一に近づいています。
将軍を追放し京を支配、浅井朝倉を討伐し尾張から京では敵なし。
最大の敵である武田も長篠の戦で破った信長は天下統一に最も近い人物となりました。
もはや敵なしの信長は家康のことを見下しており、同盟相手である家康が自身に忠誠を誓っているかどうかを試すため家康に妻子を殺させたと言われています。
①でも述べましたが信康は信長から見ても優秀な武将でした。
信長からすれば家康よりも優秀な信康が邪魔だったので、家康の忠誠心を試すいい材料と考えたのかもしれません。
その結果家康は妻子よりも信長との同盟を優先して、瀬名と信康を殺す選択をしました。
『どうする家康』では序盤に比べて家康は信長に意見できるようになっています。
しかし実際は織田信長が徳川家康を対等な同盟相手ではなく、配下の国衆レベルとして扱っている記録も残っています。
岡田准一さん演じる『どうする家康』の信長ならこのストーリーは少しあり得るのかな?と思います。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
18話でも家康が瀬名を大事にする様子が描かれていました。
木彫りのうさぎに込め瀬名に預けた【家康の弱い心】をとりに行ける日は来るのでしょうか。
仲のいい二人を見るたびに、悲しい結末がどう描かれるのかを考えてしまいます。
悲しい結末はきて欲しくないですが、ハンカチの準備をしてその時を待ちましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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コメント
[…] しかし以前に書いた瀬名・信康の事件や三方ヶ原の戦いのように、真実がわからないイベントもたくさんあります。 […]